基本情報
名前:KUMI
年齢:40代
性格:ちょっと天然 熱しやすく冷めやすい
趣味:食べること 旅行
はじめまして!KUMIと申します。
こちらのWEBサイトにお越しくださり、ありがとうございます。
私は、\お金なし、スキルなし、体力なし/トリプル無しの40代です。
毎日目の前のことをこなしつつ、
あっという間に過ぎていく。
生活にゆとりがほしいのに
どんどん物価もあがるし、子どもの教育費も増えていくばかり。
働いても働いても、
全然豊かになる未来が見えない。
そんな毎日を過ごしていると、気づいてしまったんです・・・
私はまさに、ラットレースに陥っているということに・・・
※ラットレースとは、走っても走っても終わりはなく、同じ場所を走り続けている状態
このままでは我が家は、
このゲージから抜け出すことはできない。
何とかこの状態から脱出できる方法はないか、必死で考えました。
そして、
脱出できるかもしれない一つの可能性。
それが「WEBマーケティング」だったのです。
初めに言っておきますが、WEB経験ゼロ。
おまけに、ビジネス経験ゼロ。
そんな私が、なぜWEBマーケティングに可能性を感じたのか。
自己紹介を交えながら、お話ししたいと思います。
幼少期~中学生時代
私は、大手企業に勤める父親と専業主婦の母親という家庭で生まれ育ちました。
父親は努力家で、自分に厳しい分、私と弟はよく怒られていました。
テストの結果が悪いと父に怒られ、
完全に勉強嫌いになり、成績は全然良くなかったです。
高校生:祖父の死から目覚めた使命
特段大きな出来事もなく、無難な学生生活を送っていたある日。
祖父が病院に運ばれ、入院することになったのです。
当時はよくわからなかったのですが、パーキンソン病を患っていたそうです。
戦争経験者の祖父のこめかみには、銃弾が飛んできた痕跡があります。
そんな勇敢な祖父が弱気になっている姿をみて、
子どもながらに、病気の怖さを感じました。
そして、何もできない自分に、
何とも言えない無力感を感じたのです。
「早くお墓に入りたい」
それが祖父の口癖でした。
病気の進行により、歩行障害、嚥下機能の低下によりむせもあり、
祖父は苦しんでいたんだと思います。
一緒に食事をしている時に、むせて食べ物が飛んでくることがよくありました。
その都度、飛んできた食べ物に気づかないふりをする。
それが、当時17歳の私にできた唯一のことだったように思います。
胃カメラの後、体調が思わしくなく、祖父も祖母も不安な思いをしていました。
病気がどうなっていくのか、いつまで入院できるのか、色々聞きたいことがあったようですが、病院職員に声をかけても冷たい応対。
聞きたいことの半分も聞けず、いつも不安な顔をしていました。
あの時の、祖母の何とも言えない寂しい表情が、私の脳裏に今でも焼き付いています。
ある家族にとっては、初めての病気で初めての看病
病院にとっては、大勢の患者の中の一人でしかない
病院という空間が、とても冷たく、事務的に感じた瞬間でした。
この出来事を通じて
私は、医者でも看護師でもない、
「病院と家族の温度差を埋める仕事に就きたい」
そう思うようになり、
医療ソーシャルワーカー(医療相談員)の道に進むことを決めました。
社会人1年目:無力さに打ちひしがれる日々
病院の相談員の募集枠は本当に少なく、就職先に苦労しました。
どうしても医療相談員になりたかった私は、
電話帳を片手に、片っ端から電話し、
採用予定がないか、実習だけでもさせてもらえないか直接交渉しました。
そして唯一実習の受け入れをしてくれた医療機関(300床の急性期病院)が、
私の就職先となりました。
晴れて医療相談員となった私は、やる気に満ちていました。
ところが、、、
病院はそんなに甘い世界ではなかったのです。
特に急性期の病院は、毎日急患が搬送され、病床はいつも満床。
ベット調整をする師長さんたちは、殺伐としていました。
もちろん病院は、医師、看護師等の業務独占の有資格者達。
「社会福祉士」は、国家資格ではあるけれど、何をする職種なのか明確ではなく周りからは「誰でもできる仕事をする人」という評価でした。
いまでこそ、医療ソーシャルワーカーという名も聞くようになりましたが、
私が就職した20年前は、まだまだ病院の中でも浸透しておらず、
役割が明確ではなかったのです。
師長さんからは、
「なぜあなたがカルテをみるの?」「あなたに何ができるの?」
大勢のスタッフの前で、厳しく怒鳴られたのです。
今まで父親から怒鳴られることはあっても、
大人から、大勢の前で怒鳴られる経験をしたことのなかった私は、
目の前が真っ暗になりました。
疾患も分からない。カルテの見方も分からない。自分に何ができるかも分からない。
確かに、
出来ることを探すほうが難しい。そんな現実に愕然としました。
悔しい。。。
涙で視界がかすみ、医療相談室に戻るまでの階段が、
とてつもなく長い道のりに感じました。
名称独占でしかないこの仕事って、何の意味があるんだろう。
私も看護師さんのように、自分にしかできない仕事がしたい。
心底そう思った私は、
上司に苦しい思いを吐き出したのです。
「資格がほしい。私にしかできない仕事がしたい。
こんなことなら、看護師になった方がよかった。」
すると上司はこう言ったのです。
「医師や看護師では出来ない事、気づかないことを、
あなたは仕事にしたかったんでしょ?
医療相談員は、患者さんにとって、最高の脇役になればいいんだよ」
ハッとさせられました。
病院での祖母の悲しい顔が思い出されました。
17歳の私は、祖父や祖母の悲しい思いに気づいてはいたけど、
思うだけで何も行動できなかった。
それが嫌で、病院の相談員になったんだった。
病院と患者家族の隙間を埋めるための仕事がしたい。
ここが私の原点だったことを再認識した瞬間でした。
とはいえ、すぐに何かできるようになるわけでもなく、
私が入職した年は、日本で介護保険制度が始まった年でもありました。
専門的な関わりはできないまま、毎月の介護保険請求事務等の作業で
連日日を超えるほどの残業に追われ、疲弊する1年間を過ごすことになったのです。
24歳~30歳:努力の成果が認められた!?
そんな相談員1年目を過ごした私でしたが、1年が経過する頃、私に「〇〇さん」(旧姓)と声をかけてくれる職員が増えました。
声をかけられると、この場所にいることを認められた気がして、とても嬉しかったのを覚えています。
病棟にいくのが怖くなっていた私ですが、恐る恐る顔を出し、忙しそうな師長さんの行動をみていると、、、
人の命を扱う危機管理や緊張感。
毎日この仕事をしていると、人に厳しくなるのかもしれない。
そんな風にも思えるようになりました。
病院を外から見ていてた17歳の時には、分からなかった景色です。
病院を中からみてみると、病院は病院の事情がありました。
正しい仕事をするには、
まず仲間である病院スタッフに認められないと、私は何もできない。
ここから私は気持ちを新たに、
各病棟の6名の師長さんと、とことん向き合う覚悟をきめたのです。
そして、
①毎日必ず病棟に行き師長さんと顔を合わせること。
②小さなことでも丁寧にこなすこと。
この2点を意識し、私の居場所作りを始めることにしました。
すると、少しずつ
専門職からの依頼が増えてきました。
あんなに恐れていた師長さんからは
「〇〇さんの退院時カンファ入ってくれる?」
「転院先の調整をお願い」
医師からは
「今度〇〇さんの手術があるんだけど、説明に同席してくれる?フォローをお願いしたいんだよね」とか。
病院の中で、少しずつ医療ソーシャルワーカーの役割が確立されつつあり、
やっとスタートラインに立つことができたのです。
そして私は、この病院で7年間、病院スタッフに
「生活者の視点」を持って関わってほしいことを伝え続け、
やっと納得のいく仕事ができるようになりました。
この病院で出会った、沢山の患者さんやご家族、
医師や看護師さん等の専門職と仕事ができたことは
私の中で大切な財産となりました。
40代になった今でも、
怒鳴られた師長さんとは、交流がありご縁が続いています。
31歳~転職し区役所へ
声をかけてもらったことをきっかけに、7年務めた病院を退職し、
社会福祉士として区役所に出向することを決めました。
「行政は最後の砦」とよく言われます。
入職当時は、
こんなにも知らない世界があるのかと、とても驚きました。
入職して1年もたたない頃、私の中で忘れられない出来事がありました。
結論から言うと、支援対象者の方が、自宅でお亡くなりになったのです。
その方は、虐待が疑われる心配な家庭として、役所に連絡が入っていたケースでした。
高齢者虐待対応に慣れていなかった私にとって、
行政で何ができて、何ができないのか、まだまだ肌感覚で理解できていない状況でした。
第一報の相談を受けたのが金曜日。
上司からは、
「〇〇課長がお休みなので決められない。
月曜日に話し合いましょう。」
と話があり、私は違和感を感じながらも、
自分はまだ1年目だから…と言い訳をし、土日を挟み月曜日の朝を迎えます。
月曜日会議が始まるまでの30分が、とてつもなく長い時間に感じられました。
そして、会議が始まり5分もたたないうちに警察から電話が。
自宅で亡くなっており、行政の関りについて、問い合わせが入ったのです。
結果、事故死として処理された事例ですが、
私は相談のあった金曜日に、
どうして訪問するって言えなかったんだろう。
出来た支援があったのではないか。
救える命だったのではないか。
とても後悔が残ったのです。
そして私はハッとしました。
これじゃ、17歳の時の私と一緒だ。
思うだけなら誰でもできる。
その溝を埋めたくて相談員になったんだった。
1年目とか関係ない。上司がしなかったら自分がしたらいい。
同じ結果を迎えたとしても、出きることを精一杯してなければ、私たちがいる意味がない。
自分に言い訳をすることをやめ、ここからまた私は師長さんと向き合った過去を思い出し
強くなることを心に決めました。
一番難しかったこと。
それは、「緊急性」や「危機感」は、個人によりかなり違っているという事です。
役所の中で、スピード感を上げ関われる体制を見直し、
相談ルートをしくみ化することに、力を注ぎました。
病院での師長さんから学んだ、危機感や緊急性の判断。
これを、見誤らない支援が行政にこそ必要なんだと、
新たな使命と向き合った瞬間でもありました。
40歳~現在:出向職員の限界
やりがいに感じてきた仕事ですが、このころから私自身愚痴が多くなってきました。
決定権のある上司は、2,3年ごとに異動。
その都度0ベースから伝え、組織での温度感を統一していく作業は、
とても労力のいる仕事です。
2,3年たちやっと慣れてきたチームで軌道に乗り始めたころに
また職員が異動となり0から体制を整える。
ただでさえ難しい事例が増えていて、連携先や手立てがない中での支援に、
我々スタッフも疲弊する日々です。
いつのまにか、エネルギーの大半を吸い取られ、
気づけば「朝から帰ることを考えて一日を迎える」
こんな日が増えました。
目の前のことをただただこなす毎日。
責任が取れる立場にないことを悔しく思っていたのに、
いつの間にか責任をとらなくてもいい今のポジションに甘えている自分がいました。
最高の脇役に
そしてこの頃
「このままじゃいけない」「変わりたい」そんな思いが高まる中、
SNSでRe.museというブランドの女性社長の動画をよく目にするようになりました。
他の動画とは違う、本物のオーラを感じたのです。
変わるきっかけを探していた私は、
勇気を出して、
その方の運営するオンラインサロンに入会することにしました。
そのオンラインサロンでは、これからの社会で生き抜くために必要な、
「マインド」「マーケティング」「金融リテラシー」
主に3つの柱で、様々なことが学べます。
本物からの情報を毎月浴びているうちに、
もっと深く学びたい。そう思うようになりました。
そんなある日、
このサロンのマーケティング担当の先生が
「マーケティングの力で、残すべき企業を残す仕事がしたい。
マーケティングは、最高の脇役です」
と、言ったのです。
私は雷がおちたような衝撃を覚えました。
それは私が医療相談員になった1年目。
上司に相談したときに言われた一言と
まったく同じ言葉だったのです。
20年以上相談業務に携わってきて、
私が大切にしていることがあります。
それは、
当事者だから、決められないことがある。
当事者だから、分からないことがある。
家族でも友達でもない、第三者の立場から、選択肢を増やすお手伝いをする
そんな相談員でいたいと、ずっと思って仕事をしてきました。
もしかしたら、
マーケティングも同じなんじゃないないだろうか・・・
「最高の脇役」という言葉が、私の胸に刺さりました。
私の残りの人生をかける価値があるかもしれない。
そんな風にも思えました。
私は、この先生が開催するマーケティングのスクールへ
迷うことなく入会することにしました。
このスクールでは1年間、
マーケティングの基礎について学びます。
1年後はどんな未来がまっているのか。
マーケティングの力で、誰のどんな役に立てるのか
今からとても楽しみです。
最後に
私は、これからまずは1年間。
WEBマーケティングを基本から学び、
40代でも、人生を変えることができることを証明していきます。
目標は以下のとおりです。
1年目:在宅ワークで月30万円の収入を得る。
2年目:月100万円の収入を得る
お金=価値との交換です。
お金を稼げるということは、世の中にそれだけ価値交換をしているということに
つながります。
40代でも人生変えることができる。
少しの勇気と少しの行動があれば。
私自身が実験台となり、このブログで目標を達成するまでの全過程を
隠すことなく全公開していきます。
一緒に未来を変えていきましょう!